小説 映画

『モーリス』E.M フォースター 小説と映画

昔から映画ファンの間で一定の指示を得ている、同性愛を取り扱った作品。私はLGBTジャンルとくくってしまうのがあまり好きではないのだけど、所謂そのジャンルの中でも、神格化されてるのがこの『モーリス』だと思う。そしてその評価通りめちゃくちゃ良かったし、映画を観た後に読んだ原作も、めちゃくちゃ良かったので、タラタラ感想を書いていきたいと思う。

あらすじ

同性愛が犯罪とされていた、20世紀初頭のイギリス、ケンブリッジ。凡庸な青年モーリスは知的なクライヴと親密になり、ほどなく互いに恋愛感情を抱くようになるが、高潔なクライヴは肉体関係を拒み通したまま学生時代を終える。社会に出て大人になってからも付かず離れずの友情は続くものの、自らの性衝動を御しかね孤独に苛まれるふたりは、やがて互いを傷つけあうようになっていく。政治家を目指すクライヴが上流の女性と結婚したのを機に、友人関係が復活する。モーリスはクライヴ邸の若い猟場番アレックに性指向を見抜かれる。

Wikipedia「モーリス(小説)」

小説と映画では少し違うところがあるものの、登場人物とストーリー自体に大きな差はない。

主人公モーリスは不器用で凡庸。特別賢くもないし、家柄も中流階級。少年の頃から自分の性的嗜好をなんとなく感じてはいるけれど、それをしっかりと自覚し、自分の目で見るという勇敢さは持ち合わせていない。
小説同様に映画も、少年の頃の恩師がモーリスに結婚とは何か、男女間の愛とは何か、それに伴うセックスについてを海辺で語るシーンから始まるのだけれど、その時もモーリスは教師が言ってることへの違和感を「僕は多分結婚しません」みたいな、曖昧な返答でしか表現できない。
モーリスは早くに父親を亡くし、母とふたりの妹と暮らしているので、他の人間に比べて、結婚や夫婦生活への親近感が足りないせいもあったかもしれない。

そんなモーリスの前に登場するのが、クライヴ。聡明で自己をしっかり理解し、形式ばったイギリスの宗教観や観念に早くから疑問を抱き、家族が熱心に教会へ通う中、ひとりそれを拒否する勇気まで持ち合わせた美青年。
ケンブリッジでも優秀な生徒として周りから一目置かれている。

映画では、モーリスをジェームズ・ウィルビーが、クライヴをヒュー・グラントが演じているけれど、この配役は見事だったと思う。原作ではクライヴはブロンドヘアーで小柄な青年となっているところを、ヒュー・グラントのダークヘアそのままの美しさを生かしたところも良かった。
モーリス役のジェームズ・ウィルビーはいい意味でも全く癖がない人で、はじめはこの主人公に感情移入できるかなあと心配になったほど。(だって最近のゲイをテーマにした映画は、『君の名前で僕を読んで』にしても、『マイ・プライベート・アイダホ』にしても『ブロークバック・マウンテン』にしても、わかりやすく美青年で個性のある俳優が起用されているから。)
でもしばらく観ているうちに、モーリスという人間の純真無垢な美しさがこのジェームズの演じる役そのものに思えてきて、彼の不器用さや、健気故に影響を受けやすいところとか、でも一番自由を大事にする勇敢さに惹かれていく。観終わる頃には、モーリスは彼以外にいない!と思える程になってた。

モーリスが幸福な時にはこちらも満たされ、孤独に苦しみ耐える場所ではこちらもちゃんと苦しい。そんな風にさせるのだから、ジェームズはすごい俳優だと言える。

※この先ネタバレを含みます。

特にこの抱擁のシーンは、素晴らしかった!
少しずつ心を通わせていたふたりが、勇気を持ってお互いに触れる場面。モーリスが指の間にクライヴの髪をくぐらせ、その繊細な手触りから愛情を与え、また受け取る。思わずクライヴがモーリスに抱きつき、二人は呼吸を止める。
誰かに恋したことのある人間ならわかる、息を止めた後、全身からため息が漏れるあの感覚が、画面から伝わってくる。緊張と昂りと喜びが同時に押し寄せる演技、凄まじかった。

小説『モーリス』の凄さ

クライヴが、プラトン的な愛の形(いわゆるプラトニックラブ)を重要としていたせいもあって、モーリスはクライヴとは肉体関係を持たない。何せクライヴは愛の告白をするときに『プラトンの饗宴を読んだか?ならわかるだろ?』と言う人なので、徳とか知性を重んじ、精神的繋がりのみが愛だと信じている。

プラトンの饗宴に関しては、ソクラテスはプラトニックラブを愛だとはしてない!とか、色んな解釈があるみたいだし、私も途中までと言うか本題に入る前に読むのをやめてそのままにしちゃってるので、そこの正解不正解は置いておいて、とにかくクライヴは肉体的にモーリスと繋がろうとはしない。それを受け入れるのがモーリスの愛の深さだなあと思うのだけれど、二人が破綻した後に出てくるアレックとモーリスの性描写も、実に美しく書かれているのに驚いた。

私は元々、翻訳された本が苦手で敬遠してるところがあるのだけれど、この作品はすごくすんなりと入ってきた。フォースターの愛の表現は美しいだけでなくて、時代を超えて私たちに寄り添ってくる。つまりリアル。美しいだけでなく、真実なのだ。

特に気に入ったのは、ケンブリッジを停学になったモーリスに会いに、クライヴがロンドンに出てくる場面。モーリスは停学になったことをあまり深く受け止めず、クライヴと一緒に学生生活が送れなくなったにも関わらず、意固地になって母親にも大学にも謝ろうとしない。クライヴはそんなモーリスを勝手だと感じ、ふたりの未来を危ぶむ。そんなふたりがよく考えもせずに騒がしいレストランを選んで会ってしまい、せっかく一緒にいた貴重な時間をつまらないと感じる。

クライヴが「つまらなかった」と口にして、遠回しにモーリスを詰る。この、相手に期待するあまりにそんな自分に疲れたり、好きなはずなのに一緒の時間を楽しめないすれ違いの部分は、実にリアリティがある。愛し合っていても、所詮は他人同士、許し、許され、お互いが個であることを確認しなければならないのは恋愛の辛辣さだ。

そして、モーリスがクライヴに愛を伝えるセリフがどれも良かった。ふたりの愛が通う時も、すれ違う時も、離れる時も、モーリスの言葉はまっすぐで迷いがない。

「君は唯一美しい。」

ベッドの上で戯れている時、モーリスが言うセリフ。クライヴが先に君の美しさに惚れたと言うと、「これまで見たもののなかで唯一美しい」とクライヴを表現する。”一番”ではなく、”君だけ”が美しいと表現したモーリスの言葉に嘘はないと思う。それくらい、クライヴはモーリスにとって脅威的に大きな存在だったのだ。

「僕は喧嘩したい」

ギリシャから帰ったクライヴは、自分の愛が男性から女性へと変わったことをモーリスに伝える。モーリスはすぐに受け入れられず、そんなのは気のせいだと取り乱す。クライヴが「モーリス、喧嘩はしたくない」と言うと、モーリスが「ぼくはしたい」と返す。なんて悲しく、健気な一言だろう。このセリフで、ふたりの愛は本当に終わってしまうのだなあと痛感する。

映画では、ふたりを引き合わせるきっかけとなったリズリーという青年が、男性を買い淫行罪で捕まる部分がある。(原作にはない)クライヴはそれをきっかけに、閉鎖的で伝統を重じるイギリスでこのまま生きていくこと、自分の階級、立場を守るために重要なことを悟り、寝込むほど病んでしまう。

1910年代のイギリスで、隠れて愛を育む恋人たちがどれだけ苦しい立場にいたかを突きつけられる部分。
クライヴは泣く泣くモーリスに別れを告げ、世間一般の幸せを掴もうともがく。「時代に翻弄される二人の青年の愛と苦悩」とポスターに書かれているが、その通り、この葛藤に映画では大きくスポットが当てられている。

それに対し、(人それぞれ解釈はあるけれど)小説のクライヴはごく自然に元ある本来の自分に戻ったように思えた。

元々男色というのは、どの国にも昔からある慣習のひとつ。日本でも僧侶が寺で世話する少年と関係をもったり、陰間という美少年、青年がやっている風俗があったりする。

作者のフォースター自身も、戦争に行きそこで自然に育まれる男同士の助け合いや愛情を目にした。

故に、人間にはそもそも異性も同性も関係なく、それぞれの美しさに自然に魅力を見出し、同性愛者だからではなく、個々として愛情を抱くのではないかと思う。小説のクライヴも、自分の読んだ作品や尊敬する人間からの影響、そしてケンブリッジという環境に現れたモーリスにその美しさを見出しただけだったのだ。彼が男が好きだったからではなく、モーリスが男だったからではなく、モーリスを好きになった。次第に愛は形を変え、クライヴの愛情は友情へと変わっていく。クライヴは出来た頭で少年期早々に答えを見つけ、自分の理想を求めて自己完結する。しかしその完結の仕方に時代背景や、法律に縛られた潜在的な居心地の悪さがあったことは間違いない。
もしその苦悩がなければクライヴはモーリスになんと告げたのか、どうしたのかを聞いてみたくもある。

クライヴによって、明確に自分を理解したモーリスは置いてきぼりにされる。そこが「ぼくは(喧嘩)したい」という言葉の持つ切なさだ。

クライヴは、モーリスが君が唯一美しいと言ったときにも、美しさとは何かについて小難しく語り始めるし、モーリスは彼を愛しているので「何を言ってるか分からない」と言いながらそれを受け止めるのだけど、段々とモーリスの愛情がクライヴのそれを上回っていくことを暗示する。

モーリスは置いてきぼりを喰らい、階級を維持し政治家になっていくクライヴを見ながら、苦しみに喘ぐ。孤独で、寂しさではち切れそうなモーリスの、精神も体も、どちらも諌めるのが、クライヴの家の使用人であるアレックだ。

ふたりはクライヴがこだわった階級という壁を超えて結びついていく。初めは、戸惑いアレックを突き放すモーリスも、彼の無骨で強引な愛情に飛び込む勇気を持つ。

あの作品との共通点

モーリスで脚本と監督を務めたジェームズ・アイヴォリーが、脚本を務めた『君の名前で僕を呼んで』。北イタリアの田舎で、エリオとオリヴァーが自転車に乗って遠出し、泳ぎ、途中の家でおばあさんに水を貰って喉を潤し、草むらに寝転がって時間を共有する。

ここに重なるのが、モーリスがお祖父さんにもらったオートバイにクライヴを乗せ遠出し、泳ぎ、道中で農夫のおかみさんに濡れた服を乾かしてもらうところ。

ゆったりと流れるふたりだけの尊い時間が、切り取られたように映る空気感の似た場面。ふたりでいるといつもより大胆に、それから図々しくなる青年の愚かさが好きだ。

また、たまーに出てくるモーリスの亡き父が、自分の経験をもとにモーリスを見守っている感じがするのが、あったかかった。『君の名前で僕を呼んで』も、最後に父親が経験を語りながらエリオに話をするシーンがあって、誰にでも誰かを愛する権利があって、それは誰であろうと当然の権利なのだという著者や作り手からのメッセージにも思えた。

マイノリティをテーマにした中でも、その芸術性を買われているのが監督から役者まで全部こなすグザヴィエ・ドランだと思うのだけれど、アレック役のルパート・グレイヴスは彼と重ねてしまいたくなるルックス。(これに関しては、余談です。)

フォースターの言う寛容とは

『モーリス』が書かれたのが1913年。
イギリスは1967年まで同性愛が罪であった為、この作品が発表されたのは1971年。
ハッピーエンドしか考えられなかったというフォースターの、心からの願いが込められた作品。

解説に、フォースターが大切にした”寛容”について書かれている。上流階級であった自分自身が、低所得者や蔑視の対象となる女性や弱者、差別される人たちの上に成り立っていることを認め、その者たちの多様性を完全に理解できなくとも、受け入れることこそ重要であるとした。

その彼が、階級制度に縛られるクライヴと、その何もかもを捨て去り、身一つで好きな人に会いに森へと入っていくモーリスを書いた意味はなんだったであろうか。
クライヴの住む家がだんだんと老朽化し雨を漏らす。手入れの行き届いていない荒れた庭で、モーリスがクライヴに永遠の別れを告げる。クライヴがとどまる場所と違い、モーリスのいく先は決して平坦ではないけれど、自分の手で切り開いていくことのできる希望が見える。その旧友の背中を寂しく見送ったクライヴに、私はこの世界の生き辛さを重ねてしまう。
どちらの生き方が正しいということはないし、クライヴも自分にとって重要なものを優先したまでだ。モーリスを愛した彼も、妻を愛する彼も偽物ではない。
しかしモーリスは最後まで自分を信じ、何もかも取っ払うことを選んだ。自分が自分であり続けること大切にした。そんな彼を目の当たりにした時のクライヴの後ろめたさを思うと、フォースターの言う寛容とは何かが見えてくる気がする。