映画

『ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー』

世界中の誰もが知る『ライ麦畑でつかまえて』を書いた作家。ジョンレノンを殺した男が持っていた小説を書いた男。世捨て人。孤高の物書き。

ニコラス・ホルトって、こんなに演技が出来る人なんだなと感動した。色んな作品に引っ張りだこだけど、イギリスドラマ『スキンズ』の意地悪少年のイメージが強かったせい。映画自体にそこまで劇的な演出はないし、戦争への苦悩も目を覆うようなものはなく、それでもちゃんとサリンジャーの苦しみが伝わってきたからすごいのだと思う。大袈裟でない自然体のサリンジャー、とても好感を持てた。

そもそも私にとってのサリンジャーは、『ライ麦畑でつかまえて』を、村上春樹訳で読み、挫折。その後、村上春樹は読みにくいから別の訳著のがいいと勧められて読んだ野崎孝訳も、途中で放棄。『フラニーとゾーイー』も持ってるけど、何処まで読んだか覚えていない。

難しい人だな、というのが第一印象。とてもじゃないけど、私の頭では理解できやしない。

そう思って敬遠していた天才サリンジャーも、私と同じことで悩んでいたのかと知れたことは大きい。

※以下ネタバレを含みます

抉り散らかしてくる、師の言葉たち

ケヴィン・スペイシー演じるコロンビア大の教授ウィット・バーネットが、まだ若き作家の卵であるサリンジャーに投げかける言葉が、とにかく鋭利で直球で、さらに突き刺さった途端追い討ちをかけドリルみたく回転する!
過呼吸になるかと思った。それが映画の前半約20分くらいに凝縮。
「一生、不採用でも書く気はあるのか?」
「次を書け!だめなら次!次!次を書く!」

とか、ほんとに「分かってるんですけど、出来ないんですううう」と泣きつきたくなる台詞多数。

物語とはなんなのか、それを書く意味は自分にとって何か、そもそも何で作家を目指しているのか等、物書きだけでなく全ての芸術家に通ずる人生の課題が投げつけられる。
多分この映画、何かを志す人間は冒頭だけでも観る価値があると思う。私も何回も観ようと観始めた瞬間に決意した。それで限界を感じ諦めることがあっても悔いはないと思えるほど、真理をついてきます。

バーネットを演じるケヴィン・スペイシー、性的暴行疑惑で訴えられたり問題ありな人だけど、やっぱ名優だなと認めざるを得ないハマり役。ちなみについ最近、俳優業に復帰した様子。
性的暴行疑惑のケヴィン・スペイシー、俳優業に復帰

戦争と瞑想と想像

サリンジャーが兵士としてドイツに向かいそこで凡ゆる惨劇を目にしながら生き抜いたことと、『ライ麦畑でつかまえて』の主人公ホールデン・コールフィールドがサリンジャーと共に戦い成長したことは切っても切れない。
今の小説家は戦争を経験していないから生ぬるいみたいなことはよく言われるけど(別にそうは思わないけど)この映画を観ると戦争という悲劇がなければ、あの名作は誕生していなかったかもとは思ってしまう。

戦争から帰ってきたサリンジャーは、悪夢に犯され筆さえ持てなくなる。アイデンティティだった執筆もできなくなるが、瞑想と出会い、また書くことで、物語を生み出すことでそれを乗り越える。元々自分と向き合う力が強い人だったのだろうが、サリンジャー自身が心の友であったホールデンに生かされたことは推し量るまでもない。

言葉とリズム

軽快な音楽とタイプライターを叩く音が共鳴する感じに痺れた。この類の、リズムと言葉が重なっていく感じが結構好きな人多いと思う。ダニエル・ラドクリフが詩人のアレン・ギンズバーグを演じた『キル・ユア・ダーリン』にもこういう要素があったなあと思い出した。あれも確か舞台はニューヨークだったっけ。
煙草と酒と、音楽と文学。女と男。なんか昔の作家ってかっこよくてずるいね。

そのくせ愛は継続しないんだから、仕様がない。サリンジャーも例に漏れず。

外界との関わりをシャットアウトして、出版もせずに91歳まで過ごした天才作家の考えは想像もつかないけれど、でもそのひたむきな物語への向き合い方には感服する。
逆に言えば、あれだけの傑作を一作世に出してしまえば、あとは永遠に引きこもって好きなことだけしていても暮らしていけるということ。ある意味理想の形かもしれない。
あんなにファンが傾倒し世の中が唸ったとなると、ライ麦畑〜は『聖書』に近いものを感じる。

ちなみにルーシー・ボイントン演じる、のちに妻となる女性が言う一言もよかった。
うろ覚えだけど、「たかが小説でしょ」みたいな。サリンジャーはそれで気が楽になるけど、結局”たかが”では済ませなかったんだろうな。
いや、と言うよりも、自分の物語を誰にも邪魔されたくなくて、値段もつけず、出版もせず、『たかが小説』にしたのかもしれない。

今こそ、『ライ麦畑でつかまえて』を読み直す機か。