戯言 映画

私のパターソン

コンビニをよく使う。毎日とはいかずとも、コンビニがないと生きていくのに苦労する。そう言い切れると思う。特によく使う近所のコンビニは、生命線といっても過言ではない。久しぶりに実家を出て暮らすようになり、その感覚を思い出した。自分の人生の中に、その時暮らしていた土地と密接につながるコンビニが存在することを否定できない。

小学生の頃、商品に貼ってある値札シール(当時はまだ商品ひとつひとつに小さなシールが貼ってあった)そこに描いてある歩く人型のマークを集めたくて通ったコンビニは、京都は左京区東大路通のサンクス(多分もうない)。に始まり、印象深いのは私が毎日深夜に行くので、店長のおじさんが「気をつけて帰ってね」と声をかけてくれた、横浜は石川町のファミリーマート。

今の家の近くにはローソンがある。いつもいる太った店員さんは優しくて、マスクをしていても少し笑顔なのがわかる。ありがたい、とてもありがたい。油断すると涙が出そうなほどだ。それだけ日常に溶け込んだコンビニの店員さんが優しいというのは、私にとってすごいことなのだ。

買い物は、コンビニ以外でももちろんする。洋服も買うし、飲食店でご飯や珈琲を買う。なんなら不動産屋で家を借りたり、たまにはハイブランドに背伸びして入ってみることもある。でもそこで働く人たちの人生を考えることは、なぜだか少ない。
なんだろうか、そういう人たちに、優しくされることに慣れているのかもしれない。どれも営業力のいる仕事だからだろうか。皆さん仕事が出来て、ちゃきちゃきとしているからだろうか。支払った額を考え、その対価のサービスを当たり前と、私が捉えているからなのか。(それはそれでどうかと思う)

コンビニの店員さんには情緒がある。毎日何百人とくるお客の相手を、嫌な顔ひとつせずにする店員さんの背景に、さまざまな人生を想像する。そんな時思い出すのが『パターソン』だ。

アダムドライバー演じる主人公は、バスの運転手で生計をたてながら詩を書いている。破天荒な奥さんに振り回されることはあっても、基本的には穏やか。同じことを繰り返す毎日の中で、少しの変化を見つけ、生まれてくる言葉を探し、ノートに書き連ねる。誰かに見せる勇気はまだない。歴代のビッグな詩人に思いを馳せるも、たまのピザデリバリーを楽しみにする幸せも忘れない。

ローソンの店員さんは、時々外にでて、建物の脇でタバコをふかしている。大きな身体から、煙がしゅーっと吐かれる様は、それはそれは詩的だ。パターソンなら、この瞬間を詩に書くだろう。もしかしたら、愛犬のブルドッグが店員さんに近寄り、話しかけるかもしれない。リードを引っ張りながらも、パターソンは彼の結った長い髪を褒めるだろう。

私はブルドッグも飼っていないし、あのペーソスのある瞬間を言葉にできるほど才能がない。でも、彼がエコバッグに入れやすいよう、商品をこちら側に置いてくれることに感謝をする。レシートを両手で渡す品のよさを、自分も見習おうと思う。

そういえば、私の帰り道を心配してくれた店長のおじさんのもとでは、金髪の若いお姉さんが働いていた。深夜0時頃に店長と勤務を交代すると、身体の大きな恋人が彼女を迎えに来た。恋人は、レジ越しに夜勤担当の店長と少し立ち話をしてから、彼女と肩を並べて帰っていく。私が住んでいたマンションの廊下からは、その様子がよく見えた。コンビニの中は煌々と明るく、お辞儀を何度もする彼女の金髪がキラキラしていた。夜は、コンビニを舞台にするなと思った。

パターソンが詩人であり、運転手であり、夫であるように。彼女はコンビニの店員さんであり、恋人の大切なガールフレンドであるのだ。もしかしたらYouTuberかもしれない、インフルエンサーかもしれないし、母親かもしれない。

人ってめちゃくちゃ生きてんなあ、そう思う。

毎日代わり映えのしない同じ顔ぶれを相手に、あれだけ心地のいい接客をするコンビニ店員さんを見ていると、特別なことは、ほんとは全然特別なんかじゃないのかもしれないとさえ感じる。特別なことは、もしかしたら毎日が大して変わらないこと。同じ時間しっかりと眠れること。少しだけ人に親切にできること。そういうことかも、とこの年齢になってやっと、やっと分かりかけている。そんな感じです。