小説

三島由紀夫『仮面の告白』

苦手だと思っていた三島由紀夫を手に取ってみた。

小さな書店で、新潮社の2019プレミアムカバーが並んでいるのを見て欲しくなった。ビビットなピンクは読み終わった今もこの作品にしっくりくる。三島由紀夫は、とんでもなく変態で、傷つきやすいナルシストで、戦争をも自分の広告の背景素材にしてしまう男だった。かっこよかった。今まで、ろくに作品も読まないで勘違いしててごめん。

最初に読もうと試みたのは、「潮騒」。
その頃、太宰治にハマって片っ端から読み漁っていた私には、綺麗すぎる(?)日本語や、文体から真面目な印象を受け、なんだか物足りなさを感じた。結局全然読み進めることなく、すぐにやめた。三島由紀夫がただのまともな作家に思えた。

自衛隊駐屯地で切腹した男は、とにかく真面目で面白みのない人間だったんじゃないかとか、自分の身のひとかけらも売ることなく小説を書いてたんではないかとか、あれこれ勝手なイメージを持ってしまった。一作品の冒頭を読んだだけでそんなこと決めつける自分がどうかしてるんだけども。

そして、『仮面の告白』は、まさに彼の告白だった。真の自分を隠し、被った仮面がまさに自分であると信じたい願望の告白だった。

性観念や性的嗜好を自分のアイデンティティとして少し躊躇しながらも、はっきり言葉へ乗せた三島由紀夫に親近感を覚えた。
「なんだ、超普通の男じゃん」とも思った。

私は作家に、自分と同じ人間を感じたい癖がある。それに救われてきたから、偉大な文豪たちも、私と同じどうしようもない人間であって欲しいと願う。勝手な願望。

「裸ってえっちなんだ」と気付いたのが、私は多分早かった。特に女の裸はエッチだった。4歳頃からその認識があって、保育園の先生のティシャツに透ける下着をエロいと思ったのを覚えてる。自分は女だし、異性愛者だけれど、私にとってオンナは性の概念だったとも言える。

主人公の〈私〉は、風邪で学校を休んだ日、父親の画集を自室へ持ち込んで、性の目覚めを確認する。初めての射精を伴う自慰行為はエネルギッシュさと虚しさの両方に加え、新しいことを知った興奮と罪悪感が入り混じり、<悪習>と名付けられる。

でもその名に反し、〈私〉はそれを飼いならし、飼い慣らされるのを楽しんでいるような印象を受けた。自慰行為はペットかのように(三島由紀夫は猫好きだから猫かな?)愛されて、時々彼を裏切る。海岸の巌で行う行為は特に、彼の孤独を解放した後、さらに輪をかけて〈私〉を孤独にした。

〈私〉が魅せられたグイド・レーニの『聖セバスチャン』。

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実際に画像を検索して見たら、なるほど。死に行く青年の肌は艶々で、光り輝いているし、表情には、気持ち良さそうだとも思ってしまう恍惚さと恥辱が入り混じっている。自分の鍛え上げた美しい身体を、見て!と言わんばかりの腰のくねり方に、瞳が落ちてきそうな顔つきはまるで女性のようだ。

また自分の話で申し訳ないけれど、それこそ小学生に上がるか上がらないかの頃、私は父によく美術館へ連れて行かれ、裸婦の絵画ばかりを真剣に見た。大切な部分を薄い布や、影で隠した彼女たちは、肉厚で、触ると手が食い込んでしまいそうな柔らかさがあった。触れたものを飲み込んでしまうような肉と皮膚に文字通り吸い込まれた。

それに比べ『聖セバスチャン』の身体は、弾力の反発性よりも、低反発さを重視した肉に見える。それにナイフの刃先を滑らせたい〈私〉の願望は、なんとなくだが理解できる。

全編を通して、〈私〉は死ぬことを望んでいるように書かれるが、虚弱体質で男らしく育たなかったことに相当のコンプレックスがあっただろう。得てして彼は自分より馬鹿そうな男が好きで、筋肉がものを考えているような男に惹かれる。(ちょっと言い過ぎだけど)強い彼らがナイフや矢先を突きつけられ血を流す様子は、弱いと自覚のある彼の、性的な興味以外の部分も満たしたんではないかと感じる。

気に入った箇所が数カ所あって、そのひとつ。

「寸分たがわず相手に似たいという不可能な熱望」

好きな相手とそっくり、いやむしろそのものになりたいという感情には私も身に覚えがある。好きな俳優やアイドルの真似をするのはよくある話だけれど、私は好きな男性俳優やアイドルを真似たくなる。菅田将暉の髪型を可愛いと思うと美容院に彼の写真を持って行くし、彼のガリガリで真っ白な体に近づきたいと思う。毎日日傘を差し、成功するかどうかはおいておいて絶食のダイエットを試みる。

『君の名前で僕を呼んで』 で、ティモシー・シャラメとアーミー・ハマーが演じた二人が、お互いの名前で相手を呼び合う行為にも、この「寸分たがわず相手に似たいという不可能な熱望」が込められている。

好きの行き場や置き場が分からなくなって、相手そのものになりたいと願うのは、それが不可能であって、それほどまでに相手を思うことへの悲哀が含まれるから。
本来、生き物は自分が一番大切であるのに、寸分たがわず相手に似てしまったなら、いったい自分はどこへいくのだろう。この願望が相愛でないと成立しないのは、でないと自分自身が消えてしまうからだ。(悲しいかな、私は菅田将暉と相愛ではないが)

加えてどこか共通点のある相手を好きになったり、共通点を探そうとする傾向があるのも、この願望があるからだろう。

戦争の死と隣り合わせに生きていた時代、曖昧な死ではなくはっきりとしたものがすぐ側にある”恐怖”を三島由紀夫はあまり書いていない。〈私〉の恐怖は、もっと内面へ向かって、このまま自分が生き続けることの恐怖、対して「自分だけは決して死ぬまい」という確信、確信からくる軍への官能的な期待や、死を望みながら死に見捨てられることへ享楽を見出す。

しかし、
ーこの時代には、何の役にも立たないというだけでも、大した贈物だったのだ。ー
という一文が、遠回りなようで強烈に、淡々とこの時代の悲惨さを物語っている。

もうひとつ、気に入った箇所。二・二六事件の影響が表現されていると言われる前半の雪景色の登校シーンは、最も辛辣に的確に、この時代を表していると思う。
屋根から落ちる溶けた雪の欠片を、身投げする光に例え、光が〈私〉の頸筋へあやまって身を投げる様は、三島由紀夫が書きながら思い出したこの時代の本当の印象だったのではないか。

そしてその数分後と思われる学校での近江とのやりとりや、その後の彼への性的欲求はちゃんと情欲をまといながら純粋な恋へと発展し、人に恋する瞬間を私たちに想起させる。恋する甘酸っぱさが、近江の腋窩から、白い手袋から、オーヴァー・シューズから溢れて、〈私〉を通して伝わってくる。

近江への恋は、その後の園子に対する気障な恋よりも、短くてあっけないにも関わらず強く残り、私は〈私〉の目で、”男”という生き物をみてみたいと感じた。それは私が普段自分の目で見る”男”よりも美しくて当たり前のように官能的だった。自分がどんな浅はかな目で物を見ているかが分かるようだった。

園子との恋は、戦争がひどくなって死の危険が迫るほどに高まっていくけれど、まともにひとりの人間として機能しているという錯覚が〈私〉に「正常さ」を与えてくれ、人生に希望を持たせる。

〈私〉はこの「正常さ」を初恋としたのだろうか。

そして美しいラストの会話や情景が、その「正常さ」を纏った彼の仮面、その下の顔を同時に象徴する。哀訴と言いながら、その会話の返答は〈私〉の優越感さえも感じさせるから不思議だ。清々しいフィニッシュがギラギラと反射する。

この作品の終わり方は、これ以上ないと思うほどに完璧で、このラストの為に園子がいて、園子を思うチャーコとの数回の接吻があったのではと思わせられるほど、緻密に構成されている。三島由紀夫は詩人であっただけでなく、完璧主義者だったに違いない。インテリなのはもちろんとして。

人間は、皆「仮面」をつけて生きている。本当の自分の思いに知らないふりをすることもある。気付かないふりも出来る、実際に気付かないことだってありうる。

『仮面の告白』は決して、『仮面の告白』なんではなく、結局はタダの告白かもしれない。しかしその告白にも、仮面が被せられる可能性がある。真実は存在しないのかもしれない。

彼は自分を人生の恥部(=詩)であると言った。
私も恥部になれたら。

三島由紀夫は変態でナルシストで、超がつくゲイだった。
ゲイが本から香り立った。
滅茶苦茶に面白かった。

『仮面の告白』