大好きな寺山修司の『あゝ荒野』
映画を観て、それからまた原作を読んでみた。時代背景は現代になっていたし、ところどころ違う部分はあったけど、私は原作も映画もどちらも好き。
菅田将暉とヤン・イクチュンの組み合わせ、素晴らしかった。
※以下ネタバレを含みます
(前編鑑賞)
「すいません」を数える。夢でも、起きていても、殴られながらも、「すいません」を繰り返す。そんな人生は肩へ沈みこみ脇腹へ食い込み、足の裏にめり込む。透明な、湧き水みたいな男を前にして、自分の周りだけが淀む原因を探ろうとしても、それを鉛筆で撫で、殴って殴って抱きしめても声だけは出ず。声だけは出てくれず。
どうせなら、この男と一緒に声を出して泣きたい。背中に汗を垂らし、血塗れになりながら泣きたい。結末は知っていても負けるなと叫びたい。何故なら彼が画面の中で、皆の代わりに泣いてくれるから。生きるのは怖いと叫んでくれるから。
(後編鑑賞)
時々、紙の端で指を切ることがある。すーっと入った傷を見てそわそわする。その見えないくらいの線からじわっと血が滲むと鼓動が一気に速くなり、耳の後ろに熱が溜まる。
“生きている”と感じることが、もし痛みを伴うことだとしたら。”誰かと繋がる”ことは快楽や温かさではなく、痛みだとしたら。痛みでしか繋がることが出来ないのなら。
自分に無いものを全て持った男と繋がろうとする時、私もバリカンが見出した道を泣きながら選ぶのかもしれない。
原作を読んだ時の衝撃はもっとさらっとしたものだった。新次はそれこそ痛みの知らない男だったし、彼の恨みや憎しみは映画の新次とはまた種類の違ったものだったようにも思う。だからそこに漬け込んだように思えた。原作の中のバリカンは、バリカン単体で生きていた。死ぬことが先行していた。
私はヤンイクチュンが演じたバリカンが好きだ。あの盛り上がった肩にこの世の全孤独を背負い、いつも何かに怯え、でもそれらを払拭しようとする強さを持つ。目の奥から手の甲の皮膚までがバリカンだった。寂しくて寂しくて理由もなく泣けた。立ちすくむバリカンや、笑うバリカン、見てるだけで寂しかった。
新次は菅田将暉によって原作の新次よりも情を含み、泣いたり喚いたり憤ったりした。内側で爆発した感情が時々というよりは屡々、外側でも破裂する様は何ていうか美しくて、私は菅田将暉がタイプだと言いながら彼の演技はほとんど見たことがなかったから、あゝ荒野を観ることができたことを素直に嬉しく思う。思わず出る吠えや、乱暴ながら指先が表現する優しさも、下品で粗暴な愛情も彼の演技は見事だった。
愛されたいと願う人間がこの映画にはちゃんといた。誰もそれを放棄することなく、きちんと向き合っているからこそ、彼らの抱える孤独は格好良かった。びしょびしょになったりボロボロになったり、怒りや憎しみを叫んだりすることは格好悪いことなんかじゃない。
映画が原作よりもあったかいものになるなんて誰が想像したろうか。寺山修司が観たらなんと言うか、「そうじゃないよ」と言うか、「なるほどね」と言うか。
ラストのバリカンのカウントが、死へのカウントでなくなっていたから、私は何だかホッとした。「二」であるか「夫」であるかはもう、さほど重要ではない。