映画

『たかが世界の終わり』

たかが世界の終わり

グザヴィエ・ドランの作品はしんどい。
作品のテーマも捲したてる脚本も、目に入ってくる映像は普段とは違う眼の使い方で観ることを強いられる。本作も例外なく最初から最後まで、眉間に皺を寄せたままだった。
それでも登場人物5人を必死で追いかけながら、思わずボロボロと涙が出るのは殆ど心理現象だ。お腹が空く、トイレに行きたい、汗が出るのと並ぶ。

ギャスパー・ウリエル演じるルイは、12年ぶりに家族の元を訪れ自らの死が近いことを告げようとする。飛行機の座席に座る彼に、既に憂鬱さと緊張が覆い被さる。ルイを迎え入れるのは久しぶりの兄との再会に、めかし込んでそわそわする妹と母。ルイとは初対面である長男の妻と、弟の訪問を寛容には受け止められない長男。

[家族]とは難しいカテゴリーだと思う。赤の他人であればずっと楽であることが、血の繋がる家族であるが故に途端に難しくなることが多い。生まれる家は選べないけれど、向き合うことを放棄するとしっかりと穴は開いてしまう。兄弟だから、親だから、子だからという理由だけで全てが許せるかというとそれも違う。

ヴァンサン・カッセル演じる長男アントワーヌは、ルイが帰ってきた理由を知りたくもないと怒鳴りつけて彼を罵倒する。劇作家である彼の言葉遣いをいちいち拾い嫌味たらしく真似たり。それでも彼をどうしようもない奴、酷い奴だと切り捨てることができない。それはルイや家族も、観ている私達も同様に。

わたしは小学生や中学生だった頃の記憶はあまりない。
ある日のその瞬間は覚えていたりするがどれも断片的だ。家族とはよく話した方だと思うけれど、きっと肝心なことは何も言えていなかった気がする。嘘つきになったのはこの頃からだと思う。とにかく怒られるのが怖くて嘘をよくついた。母はいつも泣いていて、父と母は怒鳴りあったり泣き叫んだり、兄はほとんど家におらず、わたしは自分の部屋でコンポの音量を上げて両親の言い合いがおさまるのを待っていた。もちろんそれだけではない。楽しいこともあった。なのに焼き付いてるのはそんな詰まらない場面ばっかりだったりする。
京都に住んでいた小学生の頃から、18歳になったら京都を出ていきたいと漠然と思っていたのはそのせいかもしれない。ひとりになりたかった。
みんながそれぞれに原因を持ち、誰か一人を悪者にすることができない。これが家族の厄介な関係性である。

度アップで映る5人は当たり前のように表情と目だけで演技をし、ルイが打ち明ける瞬間をはかる手先が落ち着かず、顔の半分が疑ったり許したりを繰り返す。じわっと汗をかく季節の早い時間に、不自然なほど影が蔓延る室内で、時折鮮やかに映る野菜の色やアイシャドウが浮き上がる。回想シーンになると、英語のヒット曲が流れ影を作る物がなくなり、自分が映画を観ている最中であることを思い出した。

自分だけが辛い、と言いたがる。自分だけがしんどいと思っている。それをぶつけると、相手もそう思っていることに気付く。両親や兄と話すと私はいつもそう感じる。それが当たり前であって、私達家族の普通だ。自由になりたい、楽になりたい、美味しいものを食べて笑っていたい、自分も家族も好きなことをして生きていきたい。例え家族であっても、犠牲にはなりたくないし犠牲になってほしくはない。これが本音ではないだろうか。

フランス語のぶつかり合いは凄まじい。1秒でもズレてしまうとそれはドランが描いている1分ではなくなる。1分がズレると1時間が大幅に変わる。そんな緊張感の漂う脚本に、こちらも息が出来ずにラストまで走る。しかし一瞬で駆け抜けるのとは違う。途中で息切れし仕方なく歩いてしまっては、また苦しさを堪えて両脚を持ち上げる感覚だ。生きるのは苦しい。息苦しい。走るのも苦しい。ドランの映画は楽しくはない。娯楽でもない。走り続けたり、生きていくようにしんどくて仕方ない。それは見て見ぬ振りをしたり、避けていたものをまざまざと見せつけられるからだ。まだ動いている心臓を手づかみで差し出されたら、受け取らないわけにはいかない。手を引いて落としてしまうわけにはいかない。

母親役のナタリー・バイが破天荒なフランス女から一変、タバコを咥えルイの核心に迫りつつも躱してしまう母の演技は見ものだし、レア・セドゥの落ち着かない下品パンキッシュでデリケートな妹も最高だった。あの猫背とあぐら、エアロビのダンスだけで”妹”になるから流石だ。
マリオン・コティヤールの不器用な会話と少女のような不安気な表情がよかった。

うなじから流れる汗のようにベトついてしまい爽やかになれない家族を、私は愛おしく思う。
彼らはあれで良いのだ、とも。決して諦めではなく。