映画

『ある愛へと続く旅』

( ※ネタバレがあるので、読まれる方は注意してください)

”運命”とは一体なんなのか。益々分からなくなった。それが果たして存在するのかも元々わかってはいないけれど。

2012年イタリアスペインの合作映画。主演はペネロペ・クルス。90年代のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を背景にエミール・ハーシュ演じるアメリカ人カメラマンとの愛、ペネロペ演じるジェンナの壮絶な人生を描いている。

2人が恋に落ちる瞬間は明確で、一目会った瞬間の目線の混じり合いとジェンナが思わずそれを逸らす様子が上手いと思った。彼らのお揃いかのようなカラフルな帽子とか、真っ白な雪景色にまるで世界の国旗がはたびくように皆が踊る様だとか、涙腺がおかしくなっている私はそこで既に泣いていた。この2人は間違いなく運命の関係なのだろうと誰もが察する瞬間て、映画の中ではよく出会う。これが結構たまらなかったりするから、この一瞬の良し悪しが個人的な映画評価にも繋がる。

ふと思ったこと。
ラテン系だったりスラヴ系の人の顔付きとか雰囲気って、妙に生命力を強く感じるなと。生命力も精神力も感受性も精力も何もかも強くて、故に運命力も強い気がする。だからって私たち日本人が弱いとは言わないけど、誰かに執着したり愛することを隠したりして見栄を張る性質は、私はあまりかっこよくないと感じてる。ただ単に”かぶれてる”だけだと思うけど。 エミール演じるディエゴは、破天荒で不必要に明るく、芸術肌で薄汚い。初めてのセックスで「俺のものだ」と洗脳し、ニットとジーンズの隙間からギャランドゥを覗かせ、遠くからやってくるジェンナに愛を叫んじゃうような、典型的なハマってはいけない男だ。でもそれがいい。そういう男が女は好きだ。お金が無くてもいい。愛してるからいいのだと、自分の写真を撮る男。 幸せは大きいほど恐ろしいから、この男はいつか離れて行ってしまうかもしれない、自分を捨てるかもしれないという恐怖のあまり、ジェンナは子供を産むことへ何よりの執着を示す。愛し合っていれば、勿論ふたりの血を分けた子供が欲しい。でもそれが自分自身の身体では不可能だと知った時、その執着のあまりに判断が鈍ると思わなかったのか。結果、ふたりの判断は鈍ったと言っていい。アリカという女性にお金を払い、ディエゴは彼女と子作りをする。子作りとは名だけで、それはセックスだ。キスもする。挿入だけでは済まないのに、ジェンナはそれを許す。結果としてそうならなくても、もうこの時点で何かが狂い始めている。 それをもっと狂わせたのは戦争で、戦争と個々の人間関係を絡めると、もうしんどさしかなく、後半はいちいち訪れる残酷な展開にひたすら泣いていた。作中の人物もみんな泣いていた。戦争で人が死んで行く中でも、愛や嫉妬は休まることがない。

「アモーレ!」とディエゴを呼ぶジェンナは、その時どちらが辛いか。戦争が辛いか。それとも夫が自分から去って行くことが辛いのか。 ジェンナが彼を見ると、ニコッといつでも微笑んでいたディエゴが、段々と心離れていくのがよく分かる。それは単なる浮気でなく、状況が招いた悲劇の決別だ。では、はじめに感じた”運命”はどこに行ったのだろう。 「人間であることが恥ずかしい」の言葉も、何も知らない息子が語る夢も、あなたの美しい言葉を問うことも、貪るようにとる食事も、楽器を演奏することも、全ては無意味かもしれなくて、詩を読むことも無意味かもしれなくて。こうやって作られた映像に、掻き乱されることも無意味かもしれなくて。一瞬でも感じたそれが必ずしも奇蹟じゃないのなら、一体何を信じればいいのだろう。 でも私は信じたいと思う。ミルクや森の匂いも、つまらないガラクタをプレゼントしてくる、柔らかい髪を持つ男も。